北口雅章法律事務所

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3月3日は,「耳の日」。

遠方出張の際,中日新聞を買ってみたら,
「中日春秋」で「耳」のことを話題にしていた。

最初に古代ギリシャの哲学者・ゼノンの警句が出てくる。

〈私たちには耳は二つあるのに,口はたった一つしかないのはなぜか。〉

ゼノンが自問自答している。

〈それは,より多く聞き,話すのはより少なくするためだ。〉

 

言いたいことはわかるが,コジツケだわね。
口の数は一つでも,「口数」が多くて困る人,って方が案外多いもんね。

 

次いで,「中日春秋」では,寺田寅彦(物理学者)の短文集『柿の種』
から,次の部分を引用している。

〈眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
  しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
  なぜだろう。〉

寺田先生の方は,自問だけで,自答していないし,
コラムの筆者も,その「答」を直接には用意していない。

「耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。」といわれるが,
聞きたくなければ,両手で耳を塞げばいいではないか!? といったら,
ふざけないで,もっと,哲学的に物事を考えよ,といわれるのか。
例えば,相手の欠点は見ないようにし(=自発的に「眼」を閉じる),
自分への批判は,謙虚に受け止めよ。
そのためにこそ,閉じることができないようにできている(=耳は外部に開かれている)のだから,とか。

 

ここで,「中日春秋」の筆者は,岩堀修明さん(解剖学者)の著書
『図解・感覚器の進化』を紹介している。

同書によると,
平衡感覚を感知する器官が,生物の進化史上,最古の感覚器で,
当時,人類の祖先だった「生物」は,
水棲の時代に,水流や,水の振動を感知する感覚細胞,つまり「エラ(鰓)」を身につけ,
さらに陸に上がって,脊椎動物になると,「エラ(鰓)」に代わって,
空気の振動を感知する感覚器(「中耳」)を身につけるに至ったという。

上記コラムの筆者は,
「口より耳を働かせているか,耳を閉じずに聞き,平衡感覚を働かせているか,
 と自問しつつ,わが両耳を触っている。」と書いた上で,
「きょうは3月3日,耳の日だ。」と結んでいるが,何が言いたいのかよくわからない。

が,「忖度」するに,次の趣旨のことを,より明確に述べるべきであったと思う。

平衡感覚こそが,生物にとって最も原始的な段階で,本源的に必要とれた感覚機能であること,
現象として,その平衡感覚を担う器官(耳)と同一の器官(すなわち,耳)が
「聴覚」をも担っていることは,極めて重要な意味をもつ。このことに哲学的な意味を見いだすとすれば,
次のとおりとなる。

「平衡感覚」(バランス感覚)を健全に維持するためには,
常に,「(両)耳」は外部に開かれていなければならない。
特に,指導的立場にある者,国家権力の中枢を担う人物は,
「耳の痛い」ことでも,謙虚に聞き入れ,自らの「平衡感覚」(バランス感覚)を保持すべき
道徳的義務がある,と。このことこそ,「アベ」が「聞き入れる」べきことだ。

そして,コラムの執筆者を含むジャーナリストも,政府に対し批判的な目を向け,
健全な世論を導くべく,「平衡感覚」(バランス感覚)が要求されるのだ,
という自覚をもってもらいたいものだ。
この辺の自覚が欠けているので,せっかく素材は興味深いものを集めているのに,
コラム全体(「中日春秋」)がぼやけたものとなっているのは残念なことだ。