北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

「円空仏である」ことと、「円空仏らしさ」とは違う

「円空仏」=「円空作の神仏像」と定義づけた場合、
「円空仏」は、本来、いかにも「円空仏らしい」と思えるのが通常であるが、ときに「円空仏らしくない」「円空仏」もないではない。したがって、「円空仏らしくない」ことは、必ずしも「円空作」=「円空仏」の否定する決定要因にはなりえない。
とはいえ、「円空仏らしくない」「円空仏」は、やはり「円空仏」とは言いたくない。

何がいいたいか?というと、…
「円空だより 第169号」(平成25年10月1日発行)には、長谷川公茂前理事長が「新発見の釈迦像」として、下掲像を「今までに見たこともない様式」ゆえに、「円空仏の真贋」の鑑別に1分ほど要したが、その「微笑」から「円空の真作であると断定しました。」と書かれている(岐阜県羽島市内の個人蔵のようだ)。だがはたしてそうか?

 

写真だけでは、断定的なことはいえないが、上記釈迦像については、「円空だより 第186号」(平成30年1月1日発行)で、朝比奈正典氏が、「金泥」と「台座のデザイン」への違和感を報告されている。

確かに、「パーツ」ごとの部分的な特徴は、いずれも「円空作」を否定する決定的な理由にはなりえない。
「金泥」は、造顕後の信者による意匠と考えることも可能である。現に三ツ谷観音講(北海道乙部町)には、「金泥」の施された円空作「観音菩薩像」が遺されている。

 

蓮台にも違和感があるが、荒子観音寺蔵の愛染明王像の台座と比較して、蓮台自体は特異とはいえない。

 

むしろ、顔から手印に掛けての像容は、長福寺蔵(愛知県稲沢市)の釈迦如来像に似ていなくもない。

 

だが、それにもかかわらず、上掲・釈迦像は「円空仏らしくない」と思う。
おそらく客観的には長谷川前理事長のいわれるとおり「円空作」=「円空仏」だろう。

そうはいうものの、私見としては、「円空仏らしくない」という趣旨でやはり「円空仏」とは認めたくない。円空が、これほど「台座自体に凝った」デザインを施した円空仏は他に類例がないし、耳の形といい、衣紋(袖口)の曲線といい、像全体の醸し出す雰囲気が、いかにも「職人っぽく」技巧的に整いすぎており、円空のオリジナリティを模すことに思いを致すあまり、円空本来の素朴さに欠けているように思えてならない。