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愚管抄を読んで思う ― 「三種の神器」の存亡

三種の神器」とは、ご存知のとおり、日本の歴代天皇が「皇統の証し」として継承してきたとされる宝物の三点セットで、「八咫鏡(やたのかがみ)」(現在、伊勢神宮内宮にて保管)、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」(現在、熱田神宮にて保管)、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(皇居「剣璽の間」にて保管)の三点である。昭和天皇も、「戦争を続ければ、三種神器を守ることもできない」といって、敗戦を決意された動機の一つである。

だが、「愚管抄」(天台座主の慈円が著した歴史書)を読んでいると、今更ながら、現在も受け継がれている「三種の神器」は本物なのか?と思わざるを得ない。

まず、愚管抄巻第二第81代・安徳天皇の段を読むと、
「この天皇は、…元歴二年(1185)三月二十四日、…壇の浦で海に入ってお亡くなりになりなった。時に御年7歳。この時、三種の神器の一つである宝剣(草薙剣)は海に沈んでしまった。また神璽(八尺瓊勾玉)は、箱が浮かんで戻ってきた。そして、内侍所(八咫鏡)は(平)時忠がとりあげ申し上げて無事であった。これらの思いがけない神秘のことについては後の巻にこまかに書いてある。」(講談社学術文庫本97頁)と書いてある。
 
 ここで、ちょっといかがわしいな、と思って、「思いがけない神秘のこと」が書かれているという「後の巻」の記述を探すと、「巻第五」に次のようなことが書かれている。

「(源)頼朝は、…、壇の浦というところで海戦にのぞんだ。戦いの結果、安徳天皇を祖母の二位(平時子)が抱きかかえ、神璽(八尺瓊勾玉)・宝剣(草薙剣)と一緒に海に入った。」、「神璽(八尺瓊勾玉)と神鏡(八咫鏡)は同年四月二十五日に都に還ってこられたが、宝剣は海に沈んでしまったのである。神璽(八尺瓊勾玉)はそれをお納めする箱が海の上に浮いていたのを武者が掬い挙げて、…に見せたりした。神鏡(八咫鏡)の方は大納言時忠が海から取り上げて保持していた。」(前掲299頁)、「宝剣(草薙剣)についてはさまざまな手がうたれたが、ついに海女も潜水しかねて探し出すことができなかった。その間の事情はどのようであったとも書き尽くすべきことではない。ただ自分で推測してみるべきことだろう。」(前掲300頁)。

神璽(八尺瓊勾玉)と神鏡(八咫鏡)の回収は、確かに「思いがけない神秘のこと」であるが、実は、もっと「思いがけない神秘のこと」が、愚管抄・巻第二(村上天皇の段)に書かれている。

曰く「(村上天皇の御代)天徳四年(957)九月二十三日、大内裏が焼けてしまった。平安京遷都後はじめての火災である。御神鏡(八咫鏡)を奉安してある温明殿(うんめいでん)の焼けあとの灰の中から、少しもそこなわれて御神鏡を探し出し申し上げることができたので、翌朝中宮職の局にお移しして、内蔵寮(くらりょう)の奉幣が行われた。」(前掲63頁)、だってさ。

さいですか

ちなみに、愚管抄・巻第三によると、寛和二年(986)六月二十二日、花山天皇が、藤原兼家(当時右大臣、道長の父)・道兼(道長の兄)の父子に籠絡されて、出家を決意して大内裏を抜け出されたものの、やはり躊躇をおぼえ、花山天皇が道兼に「これ(出家)はあまりにも急である。なおしばらく考えてみるべきではないか。」と仰せになると、道兼は、「璽剣(八尺瓊勾玉と草薙剣はもう東宮(一条天皇、当時七歳)の方へお渡しになったのではありませんか。今となってはもうかなわぬことです。」と申し上げて、諦めさせ、その頃、宮中では、兼家が、待機させていた道隆・道綱に向かって、「さあ、もう璽剣(八尺瓊勾玉と草薙剣をお移ししてもよいのではないか。」と言って、両名に一条天皇のもと(凝花舎)へ移させた(兼家は、一条天皇の外祖父にあたる。)、とのことであるから(前掲169頁)、三種の神器は、当時は同じ場所(大内裏内)にて保管されていたことが窺われる。もしそうだとすれば、天徳四年(957)の大内裏全焼時に、既に宝剣(草薙剣)も炭化してしまっていたものと推認される。