北口雅章法律事務所

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劇映画「宮本から君へ」に係る最高裁判決に思う

このほど、最高裁・第二小法廷は、左傾化したマスコミ・大絶賛の判決をくだした。
これが劇映画「宮本から君へ」助成金不交付決定処分取消訴訟判決だ(令和4年(行ヒ)第234号・同5年11月17日第二小法廷判決)。

 

私は、この判決の結論自体に異を唱えるものではないが、判決理由中の判断には、理解に苦しむ部分があり、国の税金を預かる芸術文化振興基金サイドの方々(代理人弁護士を含む)におかれては、到底納得できない判断だったのではないか、と推察する。

私が引っ掛かったのは、本件映画の出演者の一人Aが、コカインを使用したとして麻薬取締法違反の有罪判決を受けたことを承けて、芸術文化振興基金の理事長が、「薬物濫用の防止」という公益的観点から、本件助成金を交付しない処分をすることが、はたして今般の最高裁判決が説示するように、本当に「表現行為の内容に萎縮的な影響を及ぼす可能性」があり、「芸術家等の自主性や創造性をも損なう」ものとなるのか?という疑問である。

 

(以下、最高裁判決文を引用)

 

本件の場合、平成30年4月頃、本件映画の制作に着手されており、本件助成金の交付が内定した平成31年3月29日の直前(同月12日)、Aが麻薬取締法違反で逮捕され、令和元年6月18日に宣告された有罪判決が確定している。芸術文化振興基金の理事長が、「薬物濫用の防止」という公益的観点から、麻薬取締法違反の犯罪者が出演している本件映画を助成することに難色を示されたということは、当然のことながら、Aの出演シーンの収録はすべて終了していたことが論理的前提となる。であれば、映画作品(=「表現行為の内容」)としては、すでに完成していたのであるから、その助成を拒否したからといって、本件映画に関する限り、「表現行為の内容に萎縮的な影響を及ぼす可能性」は論理的にない、とはいえないか。現に、本件映画の監督は、Aの出演部分をカットしたり、Aの代役で本件映画の一部撮り直しをしていない。

 この点、最高裁第二小法廷も、「表現行為の内容に萎縮的な影響」を被る対象者が、本件映画の映画制作会社ないし映画監督に限られるものではないという趣旨で(あろうと思われるが)、「…一般的な公益が害されることを理由とする交付の拒否が広く行われるとすれば…」という説示部分に示されているように、本件映画に対する「萎縮的な影響」を問題としているのではなく、助成金行政の運用全般・風潮を問題視しているように読めなくもない。しかしながら、映画制作会社ないし映画監督としては、犯罪に手を染めたり、違法薬物に手をだしそうな俳優については、予め配役からはずせばいいだけのことであって、「キャスティングした俳優が犯罪を犯すこと」を懸念しながら、創作活動を行う映画監督などいないのであって、本件助成金の交付を拒むことが「芸術家等の自主性や創造性をも損なう」ものとは思えないのである。

 むしろ、最高裁としては、本件助成金不支給処分が理事長の裁量権の範囲の逸脱・濫用だというのであれば、上掲のような屁理屈をもちださずとも、その理由として、端的に、俳優の私生活の行状(麻薬取締法違反行為)と、本件映画の芸術性とは何ら関係がない、とか、本件映画の制作活動につき本件助成金を交付したからといって、芸術文化振興基金が「国は薬物犯罪に寛容である」といった誤ったメッセージを発したことにはならない(助成金不支給理由が事実的な基礎を欠く)といえば足りたことではないだろうか。

 私自身も、弁護士として類似の論点が問題となる裁判に携わっている関係で、上記最高裁判決で覆された原審の東京高裁判決については、くりかえし精査したことがあるが、原審では、「表現行為の内容に対する萎縮的な影響」などいう問題は論点ではなかったように記憶しているし、実際、そのような問題はないものと思われる。

 

[追記]令和6年4月19日

私の前記疑問(本件助成金の不交付が本当に将来の表現活動に対する萎縮効果を及ぼすのか?)に対しては、全く同様の疑問を持つ憲法学者の論稿が判例時報(2582号17頁)に出ていた(御幸聖樹「芸術に対する国家女性―『宮本から君へ』事件判決の位置づけと疑問点」)。曰くそもそも交付されるかどうかが不確実な助成金の不交付によって将来の表現活動に萎縮効果が生じるというのは論理に飛躍があるように思われる。」、「本判決も、規範を導くために下級審の認定した事実の中から結論志向的に事実を取捨選択したのではないかとの疑問を抱かせるほどに、本判決が規範定立の際に述べる一般的命題は(下級審での認定事実を含む)本件の事実関係にそぐわない