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レオナルド・ダ・ヴィンチ「アンギアーリの戦い」 下

Leonardo da Vinciの「アンギアーリの戦い」は,フィレンツェ共和国の国会議事堂に相当する,「五百人広間」(後のメディチ家のヴェッキオ宮殿)にて展示されることが予定されていた。
そして,Leonardo da Vinciが,約3年の歳月を費やして構想を練り,その製作に着手した10か月後,フィレンツェ政府は,同じ空間の壁面に描かれるべく,ミランジェロ(Michelangelo)に対しても,戦勝画の製作を依頼した。これが,フィレンツェ軍がピサ軍に対して勝利を収めた「カッシナの戦い」である。

【現在の「五百人広間」】

【フィレンツェ政府が構想していた「五百人広場」の壁面】

ところが,Leonardo da Vinciと,Michelangeloの夢の競演は,かなわなかった。

Leonardo da Vinciは,原寸大で「アンギアーリの戦い」の下絵を完成させ(1505.2頃),「1505年6月金曜日,午前9時30分,絵の具を塗り始めた…」(Leonardo の覚書)といわれている。その壁面全体の構図は不明であるが,各地に残されたLeonardo da Vinciの部分的な「習作」,「素描」等を総合すると,その全体構図は,1968年,カルロ・ペドレッティの「推定」復元によれば,上掲スケッチのようになるらしい。したがって,「アンギアーリの戦い」の中で,最初に壁面に描かれた,「軍旗争奪」の場面部分《タヴォラ・ドーリア》は,全体構図のごく一部に過ぎない(上掲・赤色点線部分に相当する。)ことになる。ところが,その後,この部分の油彩に不具合が生じて,壁画作成は,中途で中断。その後,Leonardo da Vinciが修復を放棄してしまったために,「アンギアーリの戦い」は未完成のままとなり,1560年代前半,同広間の改修工事の際,そこに残されていた「アンギアーリの戦い」の下絵と,《タヴォラ・ドーリア》の色づけ部分は,別の絵(ジョルジョ・ヴァザーリらの描いた壁画)によって,覆い尽くされてしまった。現在では,この改修工事までの間に,「模写」されたとみられる,複数の《タヴォラ・ドーリア》から,辛うじて,Leonardo da Vinciの原作が想像されるに過ぎない。

今回の展覧会の「目玉」である《タヴォラ・ドーリア》

 

【サンガッロによる「カッシナの戦い」の「模写」】

他方,Michelangeloの「カッシナの戦い」の方は,1364年,カッシナ近くのアルノ川沿いで水浴びをしていたフィレンツェ軍が奇襲される場面を描いた作品であるが,Michelangeloが下絵を完成させた直後,教皇ユリウス2世の霊廟造りのために召還されて,製作中断。ところが,その後,「カッシナの戦い」の下絵については,Michelangeloの才能に嫉妬した画家(バルトロメオ・バンディネッリ)によって切り刻まれてしまうといった衝撃的な事件が起こり,原画は消失してしまう。今回の「アンギアーリの戦い」展で展示されいた作品(上掲)は,16世紀に,Michelangeloの「カッシナの戦い」の下絵を「模写」した,サンガッロの作品とのこと。

 

《タヴォラ・ドーリア》(軍旗争奪の場面)を,立体模型で再現すると・・・

 

<模写のイロイロ>

上掲部分の兵士は,・・・

ルーベンス作の模写(上掲)から,敵兵の首を絞めているかな?と思っていた。

が,実は,首を締めてはいなかった。

もともとは,指で,のど元を刺突しようとしていたのかな?

短剣を突きつけさせた方が迫力がでるが,・・・

Leonardo da Vinciの美的感覚からすれば,残虐に過ぎ,原画から外れるのかもしれない。

 

《ニッコロ・プッチニーノ(傭兵隊長)の肖像》

《プッチニーノの頭部の習作》

《アンギアーレの戦闘場面でのプッチニーノ》

 

その他,ルネサンス期に描かれた,イスラム戦士との戦闘画より。