弁護士のブログBlog
このほど、名古屋高裁が、「同性婚を認めぬのは違憲」とする四件目の判決を出した。
昨今の裁判所は、「社会の空気」を読むので、その「空気」を読めば、自ずと判決の結論・内容は読める。予想どおりの判決だ。現在の「社会の空気」というよりも、左傾化したマスメディアは、「マイノリティ」保護に極端に傾き、それに棹さす判決を書こうものなら、あたかも時代錯誤な、過去の化石人の如くに、裁判官個人に対し、強烈なバッシングを加えかねない、危うさがある。
だが、このような「社会の空気」に流されるような裁判官ばかりの司法であってよいのか?
同性愛は、個人の自由である(学術的にいえば、憲法学でいう「自由権」の問題である。)。したがって、外部・国家からの干渉は許されない(「法は家庭に入らず」)。
しかし、婚姻制度や戸籍制度は、国家の根幹にかかわる重要な社会制度である(学術的にいえば、憲法学でいう「社会権」の問題である。)。伝統的な婚姻観念からすれば、「異物」を混入させることで、国家の根幹や、社会制度の本質が損なわれたり、あるいは、悪影響を及ぼす危険はないか否か?、という観点から、真剣に考えた上での判決なのか?
では、婚姻制度や戸籍制度の本質は何か?
所詮、扶養・相続の問題に還元されるのではないか?
だとすれば、「配分的正義」の問題、要は「打算」が絡んでくる可能性が高い。
すべての裁判官に問いたい。
億万長者のAが加齢を重ねて耄碌し、ボケかかった、としよう。
Aには、離婚した妻との間に、一人息子のBがおり、時折、施設に顔を出していた。
ところが、Aが死去した途端、これまで介護ケアをしていただけの関係だと思っていたYが、Aからその全財産を相続する旨の遺言書の検認手続を申し立ててきたとしよう。どうみても、Aを騙くらかして、遺言書を作成させたとしか思えない。
しかし、Bには、遺言無効を申し立てるだけの証拠資料がなかったので、しかたなくAに対し相続財産の2分の1の遺留分(民法1042条第1項第2号)を請求することにしたとしよう。
ところが、これに対し、Yが、「実は、私はAさんと同性婚してます。」と主張してきたらどうなるか? Bの遺留分は4分の1になるのか(民法900条1号)?
「あのね、そんな問題は、同性婚に固有の問題ではなく、YがAと養子縁組すれば、同様の問題が生ずる。」という批判はあるかもしれない。しかし、YがAより年上の場合、養子になることはできない(民法793条)。同性婚制度を利用すれば、この規制を潜脱できるのではないか?
「あのね、Aがヨボヨボの高齢者であることを前提とするならば、それより年上のYが、財産目当て同性婚を偽装することは考えにくいがな。」という批判もあろう。しかし、Yの擦り寄りは単独行動とは限らない。その背後に、Yを操る悪いヤツ(反社・債権者)がいるかもしれない。
このような場合、Bが、「いやいや、父は、若いときから、さんざん不倫して母を泣かせてきた。愛人はゴマンといる。だが、これまで男色をしたことはない。」と主張・立証してきたらどうなるか。Yから「いやいや趣味趣向が変わったのさ。」という抗弁が出てきたところで、裁判所は、このような個人の趣味趣向の審理に付き合うのか。
ちょっと、話は逸れるが、同性婚を認めることは、当事者は幸せであろう。だが、その周囲が同様に幸せとは限らない。結婚相手の戸籍を調べたら、同性婚者が親族にいた場合、「親族全員」が即座に納得する家系ばかりとは限らないのではないか。
ここで想い出されるのが、加藤新太郎先生の御著『四日目の裁判官』に出てくる「娘の縁談成就のため戸籍訂正を求めた母親」(131頁)の話である。保守的な日本人にとって、『戸籍』には重みがあるのである。