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弘法大師が「不殺生の戒」を破った,ってぇ?

「今昔物語」には,弘法大師が修円(僧侶)を呪術で殺した話がでてくる。
巻14・第40話「弘法大師,挑修円僧津語」である。

現代語訳(意訳)すると,次のとおり。

今は昔,嵯峨天皇の時代,弘法大師という僧侶(以下「空海」という。)が天皇の安穏のために祈祷する護持僧の役目を担っていたが,同じ頃,興福寺の僧侶・修円も護持僧の拝命を受け,2人はライバルであった。ところが,空海は,遣唐使として唐に渡って,真言密教を伝授され,帰国後もこの密教を伝法し,一方の修円も,密教の修法を深く会得していた。
 この間,修円が天皇の御前で仕えていたとき,天皇が,配下の者に「(生の)栗をゆでてまいれ。」と命じたところ,その傍らにいた修円が,「火を使って栗を煮なくても,私の法力(呪術)で煮て進ぜましょう。」と申し出た。これを聞いた天皇が,「それは凄い。すぐに栗を煮てみなさい。」と言って,修円に命じたところ,修円は,お仕えの者に,生栗の入った漆器を目の前に用意させ,「では,煮て進ぜましょう。」と宣言して,手に印を結び,呪文(陀羅尼)を唱えつつ,祈祷を始めた。すると,ちょうどよい具合に栗が煮立った。天皇は,これをご覧になって,大層感銘し,即座に試食すると,その味わいは素晴らしく,以後,天皇は,時折,修円にこれを命じるようになった。
 その後,空海が宮中で仕えるようになると,天皇は,修円の呪術のことを空海に語って賞賛した。すると,空海は,天皇に対し「それはそれは素晴らしい。しかし,今度は,私がこちらに居るときに,彼を召して,栗を煮させてみてください。私が,陰で,彼の法力の程度を試してみましょう。」と述べ,物陰に隠れた。その後,天皇が修円を宮中に召して,生栗を煮るように命じたところ,修円が,天皇の御前で加持祈祷するも,失敗に終わった。このため,修円は全身全霊で加持祈祷を繰り返したが,結局,以前のように生栗を煮ることはできなかった。
 そこで,修円は不審に思っていると,空海が物陰から姿を現わした。修円は,空海の姿をみるや,「こやつが邪魔してたか!」と知って,憎悪の念を覚えた。
 その後,修円と空海の仲は険悪となり,互いに「死ね!死ね!」と呪詛し合った。この呪詛は,双方が互いに相手をを呪い殺そうとして,延々と繰り返された。
 このとき,空海は,ある計略を思いついた。彼は,弟子たちを大勢の人が集まる市場に派遣して,「葬式の用具を買っているのだ。」と言いふらさせ,葬具を購入させた。そして,「空海僧都が急逝した。葬儀の道具を買いに来た。」と言わせた。すると,修円の弟子がこのうわさを聞きつけて,大喜びで修円に報告した。修円は,このうわさを聞いて,「確かにそう聞いたのか。」と念を押すと,弟子は,「確かにそのように聞きました。」と返答した。修円は,「これは間違いない。わが呪詛の祈祷が奏功したのだ。」と確信して,祈祷を終了した。
 このとき,空海は,ひそかに修円のもとに使者を派遣して,「修円僧津の祈祷は終わりましたか。」と尋ねさせた。その使者が戻ってきて報告するに,「修円僧都,『わが呪詛の験(しるし)がかなった。』と言って,大喜びで,今朝,祈祷を終了させたそうですよ。」と。この時,空海は,修円の虚を突いて,全身全霊で呪詛の祈祷を行ったため,修円は急逝してしまった。
 その後,空海は心に思った。「修円を呪詛で殺した。これで安心だ(原文「今ハ心安シ」)。しかし,それにしても,この数年来,われに挑戦してきて,優位な時があったり,劣位になった時もあり,競ってこれたのはただ者ではない。その正体を知っておこう。」と。そこで,空海が,呪法を行うと,本尊(大日如来)を安置する壇の上に,軍荼利明王が仁王立ちになって現れた。それで,空海は,納得した。
 それにしても,菩薩と讃えられるほどの高僧(空海)が,殺生戒を犯したのは,後世の人々の悪行を止めるためだと語り伝えられている。

 

[コメント]どうみても,「先に手をだした」のは,空海の方でしょ?
 このような弘法大師の所為を,刑法理論では,「原因において違法な行為」
もしくは「挑発防衛」と言います。
 空海が「弘法大師」の諡号(しごう)を受けたのは,空海亡き(835年)後,約86年経過した後(921年),醍醐天皇からであるから,空海の行状を「弘法大師」の行状として描くこと自体がそもそもおかしい。五大明王の一尊を「悪者」に仕立てていること自体,仏教の堕落と「世も末」の時代に出来た話であることを窺わせますね。空海が,なりふりかまわぬ「陰陽師」の如く描かれており,明らかに「冒涜」されてますもんね。