北口雅章法律事務所

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信長もビックリ? 萬松寺における「今時の」変貌

 

WADASUが,小学・中学・高校時代,
毎年,正月の初詣は, 「大須観音」 (名古屋市中区)に出向いていた。

「大須観音」は通称で,正式名称は「北野山(きたのさん)真福寺(しんぷくじ)宝生院(ほうしょういん)」といい,真言宗の寺である。元亨四年(1324年),後醍醐天皇が,尾張国長岡荘大須郷(現岐阜県羽島市大須)にて,北野天満宮の別当寺(神社を管理する寺)として造設し,能信上人が開山したところ,慶長一七年(1612年)になって,徳川家康の指図で,現在の地(名古屋市中区)に移転されたという。

 家康の意図は,大きくは二つあり,一つは,大須観音を中心に門前町を造ろうと考えたこと,そして,もう一つは,長岡荘大須郷(羽島市大須)の地は,木曽川・揖斐川・長良川が合流する輪中(わじゅう)地帯であるため水害を受けやすく,その水害から,同寺が所蔵する文化遺産を守ることにあったという(谷川彰英「名古屋地名の由来を歩く」)。なるほど,大須郷のあった岐阜県羽島の地といえば,・・・寛永一五年(1638年)に発生した洪水(木曽川の堤防の決壊)の際,円空(当時7歳)が,母を水害で亡くしたというのが通説である(梅原猛「歓喜する円空」147頁)。そして,大須観音は,『古事記』の最古写本「真福寺本古事記」を始め多数の古書を所蔵するとのこと。ちなみに,木曽川の東側は,尾張徳川家の領地(現・愛知県)であるため,慶長年間に尾張藩がその権力によって,西側(美濃側=岐阜県羽島市側)よりも約1m高く堤防を築いた。このため,ひとたび洪水が起こると,水は必然的に美濃側=岐阜県側(羽島側)に流れ,被害はもっぱら岐阜県側に生ずる(同142頁)。

学生時代のWADASUは,「大須観音」が由緒あるお寺とは知らずして,何度も足を運んでいるが,その際,必ず通るのが,「仁王門通り」ではなく,その南側を並走する「万松寺通り」の方であった。

 万松寺通り界隈は,当時は,そこそこ活気のあるアーケード街であったが(その後,大須界隈全体が,一旦は廃れかかったが,近時は,「町おこし」が奏功して,若者も多く集まる活気のある商店街となった。),万松寺通りの東端から入って,大須観音に向かって西進することになる。そして,万松寺通りを入って直ぐのところで,万松寺通りと南北に交差する道路があるが,その道路(右手・北側)の脇に,いかがわしそうな「稲荷神社もどき」があった。赤色の薄汚い布がかけれた稲荷狐の,古びた石像彫刻が多数並んでいただけの印象があるが,当時は,もっぱら学業をサボって,その並びにあるパチンコ店に通い,「稲荷神社もどき」を参詣することなどなかった。

 ところが,最近,たまたま購入した本(谷川彰英「名古屋地名の由来を歩く」)を読むと,どうやら,その「稲荷神社もどき」こそが「萬松寺」(万松寺)であり,何と,織田信長の父信秀公が,天文九年(1540年),織田家の菩提寺(曹洞宗)として開基した寺で,信秀公の葬儀も,この萬松寺で行われたという。ってことは,信秀公の葬儀の際して,当時十八歳の喪主であった信長が,焼香が始まると,いきなり仏前で,抹香を鷲づかみにして,信秀公の位牌めがけて投げつけ,忠臣・平手正秀をして「諫め目的」の自害に至らせたという逸話が残る,カノ寺ということになる(ただし,実際には,本寺は,慶長十五年[1610年]に現在の地に移るまでは,『名古屋村』[現在の名古屋市中区錦二丁目あたり]にあったらしい。)。

 本日,たまたま,大須界隈に立ち寄る機会があったので,「萬松寺詣で」をしようと,同寺に向かった。すると,なんとなんと,WADASUの記憶に残る「稲荷神社もどき」は,見る影もなくなっていた。そして,そこにあったのは,近代的に改築された「萬松寺」の構築物と,「ショータイム」になると,水を噴き,イロイロな色の光を放つ「白龍のモニュメント」であった。「ショータイム」の際,その白龍が手に持つ宝珠に何やら文字が浮かび上がったので,近づいて見ると,「大吉」と書かれてあったがな。

 

なかなか「やり手」の住職のようだ。

道路沿いにお守り等を売る店棚を設け,「万松寺 はくび通信」なる寺報を配布していた。「合格祈願」も請け負う模様。

ちなみに,「万松寺 はくび通信」2017年秋号によると,約2ヶ月前に,大村秀章・愛知県知事や,河村たかし名古屋市長ら参席のもと,「万松寺白龍館竣工式典」が行われたとのこと(おいおい,政教分離違反とちゃうやろか?),「白龍モニュメント」が大須商店街の新たなランドマークとなったこと,「白龍モニュメント演出の上演時間 11時,13時,15時,17時,19時」などと,頑張った宣伝・広告を出しているがな。