北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

高校の同窓会幹事からのメールを機に・・・

母校の同窓会幹事からメーリングリストを使って,
「卒業40周年の同窓会」のポータルサイトをアップした,との
メールをいただいたので,早速,アクセスしてみると,
先日の同窓会のときに撮影された動画と静止画が掲載されていた。

 

これを機に,しばし,高校時代の思い出にひたっていたところ,
昔の学校祭のことを思い起こしたので,書いておこう。

 

まずは,先輩の話から。

われわれが2年のとき,旭丘高校を卒業された先輩(男性)が,
英語の「教生」として,英語の授業に来ていた。
当時「教生」さんが大学3年だったとすれば,4年先輩ということになるし,大学4年だったとすれば,5年先輩ということになり,いずれにしても「学校群」になる前のバンカラ(?)世代だ。
その「教生」さんの話を妙に覚えているのは,やはり感動があったからであろう。その先輩は,その学年の成績順位が「DOBE(ドベ)」だったそうだ。
野球部に打ち込んでいたから,というのが彼の弁明であった。
それでも,進学先大学は,地元の名門! 南山大学英文科だった。
(このプロフィールで,多分,誰か特定されるだろうから,わがブログ読者で,どなたかご存知の方がみえたら,当時「教生」で英語を教えてくださった,先輩先生のお名前を教えてください。)
旭丘高校は,当時も一学年400名前後はいたであろうが,
ドベでも南山大学英文科かぁ・・・,と妙に感心したものだ。

その先輩が高校時代の学校祭のことを話してくれた。
野球部の企画だったか,先輩のクラスの企画だったか,
教員・先生方の等身大の写真をベニヤ板に貼って,運動場に並べ,
その各写真に向かって,「泥団子」を投げさせてくれた,という。

 

さて,われわれの世代はどうだったか。

1年のときは,演劇だった。
担任が国語教員(武藤先生)だったことは関係ないが,・・・
二班に分かれ,
木下順二の名作「夕鶴」
菊池寛の名作「父帰る」を上演した。
当時のクラスメートの話によると,
役者達は,夜には徳川園の街頭の下で,
日曜日には,矢田川のほとりで,人目も憚らず練習に励んだというから,
武藤先生が,各々の熱演に「感涙を流した」(?)としても,不思議ではない。

2年のときは,
弁論部で「共通一次試験」模擬試験問題を作った。
われわれの世代は,「共通一次試験」の初年度・受験世代だ。
国語は,文学青年のNくんが,ポルノ小説(マルキド・サド?)を出典として,
難問・奇問の出題を担当した。
もちろん,受験者は,全員,当時の教員。
廊下を通った先生方を無理やり教室に引き込んで,
われらが作った摸擬試験を解いてもらった。
(マークシート方式だから,5分の1の確率で正解に達する。)
そして,各教員の名前と,点数を,皆の目に触れるように貼りだした!!
(部長のMAKINOが考え出したことだ。)
正解率の悪い教員の中には,
「頼む!,私の成績を「廊下に張り出す」のだけは勘弁してくれ!」
と言って,泣きついてきた教員(O先生)が約1名いなかった訳でもないが(内緒)
旭丘の先生方にはプライドがあって,
個人名・成績点数を貼りだしても叱られなかった。
で,そのときの成績のダントツの教員が1名いた。
我々世代の同窓生は,その教員が誰だかわかるかな?
そう,教頭の馬渡(まわたり)先生の成績が,断トツだった。
馬渡先生は,京都大学理学部物理学科の卒業生で,
日本第1号のノーベル賞学者・湯川秀樹博士から直接物理学を習ったとのこと。
われわれの同期で,馬渡先生から「物理」を習った生徒は,
「ボクらは,湯川博士の孫弟子だ!」といって自慢した。
私は,残念ながら,別の教員が物理担当のクラスに配属されたため,
直接,馬渡先生から物理を習うことはなかった。
それにしても,
「旭丘の教頭になる先生は,やっぱり頭がいいんだなぁ・・」
と感心したものだ。

ということは,・・・
現校長の杉山くんも,相当優秀だったに違いない。

 

*アレェ? 三次会のとき,写真とったっけ?